昭和四十五年五月二十六日 夜の御理解


 今御祈念前にちょっとお道の新聞が来ておったからちょっと見せて頂いて、静岡県の浜松教会の御信者さんのことがここに冒頭のところにこんなことがありました。私も同感しました。ちょこっとばかりですから読んでみましょう。
 「朝参りの帰り道路一面にビール瓶が割れて粉々に散らかっているんです。通る人が怪我をしてはと思いますが早朝の道路に箒などある筈がありませんよね。後ろ髪を引かれる思いで帰りましたが少し帰った所に道路になんと箒が落ちて居るんですよ。神様のお働きって恐ろしいですね。ぞっとしました。すぐ引き返してお掃除したんですがこちらが御用に立たせて頂きたいと願いさえあれば神様は何とでもされますね。こちらの心まですがすがしくして呉れる高橋さんの淡々とした話であった」と云うことです。高橋さんと云う方が記者に対して話された一口なんですよね。たったそれだけなんですけれども私はほんとに信心とはそれだと思います。ね、段々信心が分かってくるとおかげを受けたい、誰だってそうですけれど分かって来れば来る程とにかくやはり神様に喜んで頂く様な働きをさして貰いたい、世のお役に立ちたいといわゆるそういう願いがここ一杯に広がって来る訳ですよね。そこにその信心さして頂く者の生きがいすら感じる位になって来ると御用をさして頂きたい、お役に立ちたい、御用がしたい御用がしたいと云うその願いがですね、この様な形になって表れてくるんですよ。これはま少し意味が違うけれどおんなじ様な私も共鳴するんですけども、私は福岡での修行中の時分はあのご地内をみだりに汚すなよと仰るご地内を汚さんだけではなくて汚しておる所を清めて歩いた時代があるんですよ。もう裏町なんかを福岡の裏町なんかをまいりますとね、もう表にこの子供の大小便をし散らかしたりしたような所があったりする。そういう所を私はもう何時もお掃除さして頂くことに決めて居る。これはもう私は絶対と云うていい程ですね、その近所にねなんかボウル紙とか新聞紙とかねたまには今云う箒とか落ちているんですよ。もうこれは不思議でたまらなかった私。だからこちらがほんとに神様が喜んで頂く様なことをさせて頂こうと一念発起したらね神様がさして下さると云うこと。この人もやはりそこを体験しておられる訳ですよね。ビール瓶が朝参りの帰りに一杯散らかっておった。これで人が怪我でもしたらと思うけどどっこい手では出来ない。ところがすぐ側に箒が落ちて居ったと云うのですよ。ですから私共がほんとにお役に立ちたいお役に立ちたいと云う願いを持って居ると云うてもね、神様が御用に使うて下さらんならば何処かまだ自分が間違って居る時と思うて間違いないですね。ね、私はこの一口の高橋さんて云う方の云うて居られる中からね、確かにそうだと信心させて頂く者は神様に喜んで頂けれる生き方、いわば御用がしたい、そういう御用に使うて頂きたいと云う願いを持ちそこに生きがいすら感じる様なね、おかげを頂かせて貰う時にこれはまあ願わんでも神様がね、氏子の用は神が足して下さると云う程しのおかげになって来ると思うです。神様がその氏子の上におかげを下さることも又間違いありません。だからお役に立ちたいと本気で願ったらね、お役に使うて下さる。もし例えばお役に使うて下さらないとするならね自分の思いがまあだほんとに切実でないと云うことを悟らにゃいかんですよね。どうぞ